2011年12月27日火曜日

タイヒ・ト・リレキ

JRというアーティストの作品集を買った。
ずっと気になっていた人で、ようやく作品集に出会えた。
『WOMEN ARE HEROES』というプロジェクトを本にまとめたものです。

『WOMEN ARE HEROES』はこんな本です

男性優位の社会で虐げられる女性達の現状を伝えるため、
女性達にインタビューとポートレート撮影を行い、
町の壁や屋根に巨大ポートレートを貼付けるプロジェクトを続けている。
そのメディアは列車のボディ、橋、自動車、道路、階段など多岐にわたる。
このプロジェクトは参加可能型であり、
女性はモデルを務め、子ども達はグラフィティの貼付けをして参加する。
スラム街や紛争地域などで活動する事で、
虐げられた人々の強いメッセージを伝えている。


この作品がわりと有名ですね。
初めて見たときにすごすぎて絶句しました。
スラムの屋根にポートレートを貼っています。


これなんかも最高にクール!
もうむちゃくちゃにすごい。

この作品集は、女性のインタビューと、もとになったポートレートと、
それを使った作品をセットで見る事ができる。

インタビューとポートレート
そのポートレートをプールの底にはりつけた作品。
これもそうとうカッコいい。
アートブックとしてもかなり面白い。

今までも沢山このようなメッセージアートはあった。
すごく気の利いたものや、考えさせる工夫が施されているもの、
なんだかんだでこのジャンルには豊富な表現がある。
でも、ろくでもないものばかりが目に付く。
例えば、最近ちょいちょい見かける動物愛護団体のヌードなんかは、
全然共感できないし魅力的じゃない。
裸なのでそりゃ目を引くけど、僕には露出狂にしか見えない。

闘牛反対!を裸で訴えてみました。

裸で牛の形を作って抗議!血も出てるよ!
僕は動物が大好きで、理不尽な扱いから救いたいと常に思っているけど、
闘牛のように歴史と文化のなかで育まれたことに対しては、意見を持たないようにしている。
そこには否定できない価値が詰っていて、
それはまぎれもなく人類の財産だからです。
(人の都合でものを語るなと言われると思うけど、、、)

この『WOMEN ARE HEROS』は「人」を救うために「人」が行っている抗議です。
「対象が動物じゃなくて人なら肯定するのか?」と言われそうですが、
「人」の場合は、「裸で寝転がって絵を描いてみました」的な
上から目線のユーモア(語弊があると思うけどあえて言います)が通用しないのです。
とてつもなくデリケートで、ひとつ間違えると、
守りたい対象を深く傷つけてしまう。

『WOMEN ARE HEROS』はすばらしい。

直接人が騒がず、無言のまま、アートのインパクトで感じさせる。
下手すると殺されかねない政府手つかずのヤバい地域にとけ込むところから始めて、
結果的に住人総出でアートを作り上げている。

大都市の路上で警察に許可をもらって裸で寝転がるのとは訳が違う。
しかも、見た事の無い光景を見せてくれる。
僕が大好きな『クリスト』のような感動がセットで付いてくる。

クリスト『包まれたライヒスターグ』ベルリン
***

僕が考える「これからの表現」として大切な要素は、
以前このブログでも触れている「対比履歴」。
闇雲に新しい物を生み出すのではなく、
「関係性」を見えるものに昇華していく行為が求められていると思う。

『WOMEN ARE HEROS』には、対比と履歴の両方がある。
ボロボロの町並みや、密林の集落に突然現れるモノクロの巨大な人の顔。
ものすごいミスマッチが、ものすごい衝撃的な対比構造を生んでいる。
しかも巨大なので、だれも無視できないルックスになっている。
そして、その作品はそのまま放置されて、自然に老朽化し、朽ち果てて行く。



こんな感じでぼろぼろになってもそのまま。
抗議なので、できるだけ長く掲示することが大切であり、また、
住人たちの手で作られているので、誰も不快に思っていない。
むしろ誇りに思っている。そのことも抗議の強さに繋がっている。

まさに「履歴」が表現に昇華されているのです。

とてもしっかり完成された抗議のスキームなのだと思ってしまう。



作品集の表紙にもなっているこの作品がたくさんのことを物語っている。

お買い求めはONSUNDAYSで。

2011年9月20日火曜日

ヨックモック的クリエイティヴィティ

ヨックモックの缶、うちの実家には沢山ある。
うちのクライアントさんのオフィスにもあった。
兄の家にもある。
僕の師匠の家にもあった。

ほぼ全員が、名刺やハガキの整理箱にしている。
ほかにもいろいろなお菓子の入れ物が、同じような再利用をされているが、
ヨックモックがダントツに多いような気がする。

なんとなくサイズ感が良いのだろうか。

本来の役目を終えてからも使い続けられるモノって、素晴らしいんじゃないかと、
常々思っている。
逆に言うと、それを意識した物作りが21世紀的プロダクトなのではないだろうか。

それを模索する映画が『ブッシュマン』ですね。
あのコーラの瓶、最高です。

****

小学生の頃、牛乳パックを沢山集めていた。
それは、ロボットを作るため。
程よい数がたまるたびに、巨大ロボが完成する。
今思えば、厚紙とかでも作れたのに、わざわざ牛乳パックがたまるのを待っていた。
はじめから成立している牛乳パックの直方体の姿に、
ロボットのパーツを見出していたのだろう。
リアルに作り込むよりも、牛乳パック感が残るところに面白みがある。

プラモデルも沢山作っていたけれども、
牛乳パックには何とも言えないロマンがあった。

トランスフォーマーなんかを見ても、
もとの自動車のデザインが残っているからこそカッコいい。


このもとが解る感じ、かなり大事なポイントのような気がする。

例えば古紙とか、ペットボトルウールとかに代表される、
もとをわからなくして新しい何かに作り替える類いの物にはない
面白さと可能性を感じる。

***

先日、仲のいい編集者のO.Y.さんが、打ち合わせのときにMacBookAirを出して、
起動させるのかと思いきや、パカッとふたを開けたら、
そこにはA4サイズの書類が沢山挟まっていた。
すげーーー!バインダーにしちゃってる。パソコンなのに。
しかも打ち合わせ中、一度も起動せず、
紙の書類をまたもとのようにMacBookAirに挟み込んで鞄へおさまっていった。
完全にバインダーの役目だけでした。
MacBookAirのボディ素材は飛行機に使うくらいの剛性があるので、
絶対に折り曲げたくない重要書類を挟むにはうってつけですね。
火にも強そうだし。

「大火事に見舞われてもこの書類だけは無傷だったよ、
パソコンは動かなくなっちゃったけどね。」

ということがおきたりすると、鳥肌もんのパラドックスです。

また、別な人の話ですが、iPadをノートに挟んで下敷きにしている人もいました。
メモ機能満載のハイテクマシーンを下敷きにして紙に鉛筆でメモを取る。
すごいパラドックス。
でも素敵!!

***

話を最初に戻しますが、
ヨックモックとコクヨとかが手を組んで、
サイズがちょうど良くできている「名刺入れになるお菓子の缶」を
始めから設計してつくるのはどうだろうか?
と想像してみると、、、

いや、、、、つまらない。

そう設えちゃうと、可能性が無くなっちゃいますね。

この二次的利用は、設定されていないことが重要です。
好きにしてね!というスタンスが発明を生むんですね!

***

気をつけなくてはいけないのは、
ただ単純に再利用すれば良いってものでもなくて、
相応しいかどうかの判断は大切です。
先日訪れた鴨川の食道では、お冷やがカップ酒の空きカップで出て来た。
さすがにこれは引きました、、、。


2011年8月20日土曜日

イッソノコト・イッショクデ・イットク?

「青い空」といっても、青だけでできているわけではない。
けっこう複雑な色が絡み合って、自然な空が作られる。
「青い海」も、
「緑の山」も、
「真っ赤な夕日」も、
ほんとは複雑な色彩構成を持っている。

青い空が、本当に青1色だったらヤバイです。
まったく「抜け」を感じないと思うし、
重たいし、閉塞感満点で、絶望感すら感じるかも。

緑の山も、本当に緑1色だったらヤバいです。
自然物には見えないでしょう。


ちょうどこの「中国雲南省の禿げ山緑化計画」みたいな感じになってしまう。
ちなみにこの塗装に日本円で600万円もかけたそうです。

***

人工的な物でも、1色で作られている物は少ない。
というよりも無いかもしれない。
ほぼ全体が1色でできていても、
どこかしらにロゴマークやタグなんかが存在する。

完全に1色だけでできている物を見ると、
なんとなく未完成品のように思えてくる。
例えば、白1色だったら、それは塗装前の状態に見える。
ビビットな色だったとしても、1色であれば、金型成形しただけの素体に見える。
これから仕上げ作業に入のるだろうと、予測します。

目に飛び込む色数は、
ある物を、完成品として認識するための無意識的判断基準になっている一面がある。

ということは、
1色のみで作られている物が日常生活の中に存在すると、
違和感を感じるはず。
出荷される前の物のように見えるはずだから。

そして、その固定観念を刺激すると、結構面白い。





この青いボートは「ora-ito」というアーティストの作品。
通常、世の中に存在する物は、自然物、人工物問わず、
これだけの範囲を1色で構成されているものには、なかなか出会えない。
(計器の白が惜しい。)

この違和感がたまらなく面白いですねえええ。
青いハンドルを初めて見た。
固定観念を裏切ってくれている。

僕が興味をそそられるのは、
このように、1色にしてしまうだけでアートになってしまう可能性が
芽生えるということ。


これはとある雑誌に掲載されていたアート。
こんな風に、緑一色で塗っちゃっても、かなり奥深いアートになりうる。
花、肌、髪の毛の色相差の剥奪が面白いと思える。



これは、うちのオフィスにあるオブジェ。
本をそのまま型取りした石膏製。
某有名インテリアデザイナーの照明作品用のスタディだったものを、
友人からいただいた。
本物の「本」を型取りしているだけあって、
形は超リアル。それでいて白1色。
この違和感が面白い。こんなにリアルなのに虚なのです。

これは存在認識上のギャップであり、
古くから概念としては存在していたことです。
それをわかり易く視覚的に表現してくれる人が
あまりいなかっただけのこと。

この1色化という行為は、
誰もが一度は考えてみたことがあると思います。
本質的に面白くて新しさを生み出す行為は、
古い概念である場合が多い。
そこが奥深い。

***

ちょっと意味合いが違ってくるのですが、
既に流通している物を、1色化して違う需要を生み出しているケースをご紹介。
例えばこれ、

HUBLOT(ウブロ)のオールグリーン、オールブルー、オールブラック。
ビッグバンというシリーズを1色化したもの。
かなりカッコいいです。
1色じゃない元のデザインを知っていれば、面白さは倍増します。


これが普通のビッグバン(いろいろなタイプがあります)。

***

ためしに、こんなのもいいかも。
ゴレンジャー・オールブラック

そしてゴレンジャー・オールブルー

さたにゴレンジャー・オールレッド

実在できたら、
けっこうシュールで面白いと思う。
個々の名前はどうしよう、、、赤レンジャーとか黄レンジャーとか意味ないし。


2011年8月8日月曜日

ナヤンダラ・クリカエセ

miumiu
TOTO
ハンバートハンバート
anan
ムームー
リンリンランラン
オレオレ詐欺
ミルミル
眠眠打破
強強打破
キンキン
まえだまえだ
ggg
DDD
シュシュ
でんでん
JUJU
トゥクトゥク
Bb
KAKA
COCCO
ボンボン
クスクス
ロミロミ
ウラウラ
蕭蕭
0044 paris
DADA
リーリー
シンシン
レディーガガ
ジジ
Mrポポ
チルチルミチル
シルシルミシル
シュシュ
CCガールズ
CCB
CC-LEMON
SMAP×SMAP
HEY HEY HEY
コイコイ
アイアイ
よむよむ
まるまるモリモリ
ゴキブリホイホイ
ルックルックこんにちは
担々麺
ニンニン
ネネ
ノコノコ
ママ
パパ
ミンキーモモ
ヨーヨー
ルルゴールド
レレレのおじさん
AAA
FF
hhstyle.com
JJ
KKK
LL Brothers
AUDI TT
VVVフェンロ
プリンセスプリンセス
ガリガリ君
オレンジレンジ
品品
KiKi
赤々舎
Francfranc

nano/nano graphics




2011年7月26日火曜日

らしさ

僕は、
アートディレクションやデザインのような商いを続けておりますが、
それらの仕事は、
「〜らしさ」と「〜らしくなさ」のコントロールのような気がしている。

短絡的には「意外性の使い方」と思いがちだが、
それとは全く違う。

「〜らしさ」と「〜らしくなさ」は相反する物ではなく、
共存しないと新しいステージは訪れない。

例えば、
「この写真集は和風だから、表紙のタイトルは
どう考えても明朝体がしっくりくるよね!(らしさ)」
という判断は世間が認識しているテイストをリピートしていることになるから、
基本的には好きじゃない。

そこには当然、安心感のようなものが芽生えるので、良い面もある。
その安心感をすんなりと芽生えさせるためには、
実はレベルの高い見せ方が要求される。

「らしさ」という山の頂上にむかって突き進んでいるだけでは、
次のステージは訪れない。
というのが持論です。

先述の例えの場合、
単純にゴシックにすれば良いのかというと、
表面的には「らしさ」と逆にいっているのだが、それは違う。

次のステージへ登るために大切なのは、
「らしくないらしさ」を読み解くことだと思う。

僕が思う理想の制作スキームは、
「らしさ」を見極めることから始めるが、
それは「らしくなさ」を見つけるための行為であり、
その後、「らしくなさ」という山に登り始めます。
「らしくなさ」という山の頂上から、
「らしさ」の頂上へ吊り橋を架ける方法を探します。

その結果としてのゴシックであれば、
次のステージに上がったゴシックになっていると思う。
そこには、ステレオタイプの安心感は無いが、
驚きの中に、安心感を植え付けているはずなのです。

*****

自分自身にも「らしさ」を培っていかなくては、、、と思う。
そうすれば、自分の表現の中で「らしくなさ」の相乗効果を作り出せるから。

2011年7月7日木曜日

コビリツイタ・イメージ

シェイクスピア作品でもっともえげつない作品は、
おそらく『タイタス・アンドロニカス』だと思う。

ローマ帝国の武将タイタスに破れたゴート族の女王タモーラが
言葉に表現できないほどの残虐な復讐をする話です。
タイタスの娘ラヴィニアは夫を殺され、さらに強姦され、
さらに口封じのために舌を切られ、おまけに手も切られる。
そして極めつけが、手を切ったあとに、木の枝をくくり付けるんですyo!

映画でそのシーンを見たときに、
両手首が木の枝になって絶望する姿が目に焼き付いてしまって、、、。
(画像が見つからないので、ここに掲載できないのですが)

そのシーンは、凄く残酷な描写なのですが、とてつもなく美しいのです。
その美しさが手伝って、一方的に残酷さが僕の毛穴から入ってくるような、
無抵抗感に支配されました。
そして気持ち悪くなって吐きました。(お食事中の方すいません)

そのビジュアルがずっと頭から離れずにいます。
ちょっとしたトリガーによって、それを思い出してしまう。
辛いんです。けっこう。

たとえば、こいつです。コブラさん。
これを見ただけでも、ラヴィニアを思い出してしまうんです。
コブラ自体はとても好きなんですけどね。とくにラグボールのシリーズは。



そして、こいつも。
なんかむかつく。


そしてウルヴァリンも。



コブラもフック船長もウルヴァリンも、手に何か付いてるから、
原因が分かり易いのですが、
最近は、そのことに限らずに、なんか変なもんが付いてるだけでも、
ラヴィニアを思い出しちゃうんです。

こんなのでもラヴィニア。


そしてこんなのでも。
これハンズフリーフォン?


さらに、人間じゃなくても、本来の姿に異物が融合していると、
ラヴィニアを思い出しちゃう。

例えばこんなの。


さらに世界遺産でも。


あと、最近の女子がやってるネイルアートも、かるくラヴィニアなんです。
もうトラウマですね。

極めつけはこれ。自爪なんだけどね。
うううっ、、吐きそう。


生物はきっと、素体がイチバン美しいと思う。
(この発言は、いろいろな問題を誘発しますが、見過ごして下さいませ。)

ちょっと、意味が違うけど、
工業製品とかも出荷されたときのままが美しい気がする。
改造車とか、携帯のシールカスタマイズとか好きじゃないです。

でも、生物と異物の融合であっても、ラヴィニアの記憶は出てこなくて、
なおかつ僕の中で永遠の美として記憶されており、
ガンダムとともに私をデザイン業界へと駆り立てた写真があります。

これです。

これを初めて見たときはかなり若かった。
ショックでした。素敵すぎて。
そのころは、こういう形をしている義足があることを知らなかった。
美しい。
足の形を模して、足があるかのようにするための義足ではない。
そんなことはもうどうでも良くて、
膝から下が無い人がいかに速く走ることが出来るかということを
追求したフォルムです。
パワーアップアイテムです。

障害に向き合うスタンスを真剣に考えた瞬間でした。

僕の母が、第1級の障害者認定を受けている人なので、
人生観ごと変わったのです。もちろん良い方向にです。

この写真の女性は、我々よりも進化する可能性を秘めていると感じた。
僕にそう思わせたこのデザインに惚れた。

そして何よりも、この写真が美しいことに感動しました。
完璧でセクシーな上半身、鍛え抜かれたヒップラインと太もも。
生命力は僕よりも確実に上です。
ナノナノグラフィックスを立ち上げてからずっと、
会議室にこのコピーを貼っていたくらい好きですし、
もはや自分のスローガンのような存在になっています。
方向性に迷ったときに、幾度となく大切なことを気付かせてくれました。

でも今は、卒業しています。この写真を。
引っ越しを機に貼るのはやめました。いろいろ僕も成長したからね。


2011年6月28日火曜日

ウニモグ&ハニーフラッシュ

ウニモグってご存知でしょうか?
念のため、ウニをモグモグ食べることじゃないです。


メルセデスベンツの車です。
Universal-Motor-Gerät = UNIMOG
直訳すると「多目的動力装置」です。
この「装置」ってところがたまりません。


予備校の先生が飼っていた猫の名前が「ウニモグ」だったので、
そのころから大好きな装置です。


こんな車です。
ずんぐりしたフォルムが最高です。
この写真は新型なのでクール。


ちなみにこれはアーバンウニモグ。
都会的ですかね?


とにかくこの車の走破性能はすごくて、
最大登坂角度は45°だったりします。
そして、「装置」という名に恥じない活躍ぶりを少しご紹介。
あんまりすごいので、いろんなことに使われています。
というか、汎用性ありすぎ。




貨物車の動力の代わりをさせられたり、


京王線もひっぱったり、



国家権力の道具になったり、



餅を踏んでみたり、



ラリーに出場したり、



なんかすごい掃除させられたり、



綿菓子作ってみたり、



戦争してみたり、


どうですか、素敵でしょ?
キューティーハニー顔負けの変身&ご活躍ぶり♡
笑えるレベルです。


ちなみに価格は1600万円くらいです。


(*写真転用、問題ありましたら削除致しますのでご一報ください。)


紳士協定

新宿で、とある展覧会を見た。
なかなか行けなくて、やっと見た。
この作家さんの普段のお仕事は素晴らしいものばかりです。

だが、その展示はものすごくつまらなかった。

なぜだろう。
僕のバイオリズムの問題なのか? 最近体調悪いし。
良いものを敏感に感じ取れなくなってきているのだろうか?
センサーが老化してきたのか?
いろいろと不安になり、考え込んでしまった。
でも、これだけはっきりと好きになれなかった展覧会って稀です。
ほとんどの場合は、良くない展示でも、どこかに良い部分を見つけて、
自分の独特な見解をよりどころにしながら面白がってきた。

その展覧会に関して言えば、
こんな広い空間で、わざわざ見せる必要性が全く感じられず、
一点ずつじっくり見る気もせず、ものすごい短時間で出てしまった。
壁に飾ってまで見せるようなものではない気がした。

***

アートや写真の魅力を最も引き出せる場所は、
美術館じゃないと思う。
あえてしつらえた場所で、「さあ見てください、すてきでしょ!」って顔されても、
作品がかわいそうにすら感じるときがある。
でも、「まあ美術館がそこまで言うんなら見てみましょうかね」と、
自分を騙しながら観賞に入る場合がほとんど。
でも実際に見たときに、意に反して心底すばらしと思えれば、
それはすごいことであり、
美術館は自分の意志ではたどり着けない領域への入り口になりえる。

***

昔から日本人は、自分を騙すことを娯楽として享受できる人種である。
その最たる例が、文楽の人形遣いと歌舞伎の黒子。
「丸見えだけど、見えてないことにしましょう!」という楽しみ方。
一種の「紳士協定」です。
もちろん、人形遣いと黒子の動き自体が、
芸術性の高いものなので面白いし、成立する。
見えないフリをしようと思ったこと自体が、素晴らしい見せ物になっていたら、
意外性が完成度をあげてしまうような、奇跡の相乗効果をもたらします。

***

「自分を騙してもいいかも!」と思わせてくれる力。
それが美術館のような「発表の場」の役割なのかもと思います。

美術館の建築は、その役割を果たすために、素敵でなくてはならないのですね。
入り口が無いと入れない世界は沢山ありますもの。

入り口を沢山の場所へ届ける可能性として、
ザハ・ハディッドの「CHANEL MOBILE ART PAVILION」が気になっている。


これ、移動ミュージアムです。


2011年6月23日木曜日

どうせやるなら

どうせやるならこうだよね。
と思ったこと、

TESLR。
イケイケのスーパーカーのくせに電気自動車♡

TESLR HPより

こんなですもの。
自粛的にエコロジーを捉えているケースが多い中で、
とても将来性を感じる。
ただ、まだかなり高額ですけど。

TESLRは、勇敢なシリコンバレーのエンジニアグループによって、
電気自動車には素晴らしい可能性があることを証明するために
2003年に設立されたブランドです。

200V、3時間充電で400Km走る。
5Km/Lのスポーツカーで例えれば、80リットルの給油分。
けっこう持つよね。
帰宅するたびに充電、行く先々で充電、みたいなことは無いね。
あるていど予測してストレス無く乗れる。

とにかくスポーツカーとしての性能はかなりのもんだそうで、
とんでもない加速力と制動力だそうです。
エンジン音が無い状態での加速は、異様な感覚だそうです。
すいません、ぜんぶ「だそうです」で。
こんど試乗してきます。

で、こんなことが書きたいのではなくて、、、。
TESLRのホームページにこんな画像があって、、、。

TESLR HPより
ちょっといいっす。
ソーラー屋根の車庫。停まっているのはバリバリのスポーツカー。
ぐっと来ました。
なんかいい。なんて言ったら良いかわかんないけど。
しいて例えるなら、ラピュタにいる巨大ロボットが小鳥に優しくして、
花を踏まないようにしている感じかな。


どう? 伝わった?


2011年6月22日水曜日

イノチノミナモト

人間の体を支えているもの。
命の源。

食事
呼吸
排泄
睡眠
生殖

人間をひとつの生物と見た場合はこんなところか。
でも
これらを命の源だと思うことは、違うと思う。


食事は、栄養を摂取する行為で生きて行くために必要なのだが、
命の源となりうることとは違う気がする。
大好きな人と素敵な空間で、幸せな会話をしながら食べることとか。
3歳の姪っ子がぐちゃぐちゃにしながら作ったおにぎりを、
美味しいね、上手だねって嘘つきながらたべたりとか。
友人が最後の楽しみに取っておいたお弁当の卵焼きを、
「えっ、卵焼き嫌いなの?」と言いながら横から強奪して食べるとか、、、。

食事を媒介にして起こる素敵出来事のほうに、
命の源があふれていると思う。


呼吸は、体内臓器を機能させるために必要な行為なのだが、
命の源となりうることとは違う気がする。
険しい森をかきわけてたどり着いた湖のほとりでの呼吸とか。
悪いやつに追われていて、かがんで隠れながら息を止めていて、
やり過ごせたときに吸い込む安堵の呼吸とか。
グランドキャニオンを見たときにのみ込んだ息とか。
ラマーズ法とか。
誕生日にろうそくを消すとか。

呼吸を媒介にして起こる素敵出来事のほうに、
命の源があふれていると思う。


排泄は、不必要な物を捨てて、新たな摂取のキャパを設ける行為なのだが、
命の源となりうることとは違う気がする。
西の河原の湯の中で、こっそりと放出するそれとか。
大草原のど真ん中でする野○ソとか。
家の便所で谷川俊太郎を読みながら放出するそれとか。

排泄を媒介にして起こる素敵出来事のほうに、
命の源があふれていると思う。


睡眠は、体の疲労をリセットし再起動するための準備なのだが、
命の源となりうることとは違う気がする。
3万円のオペラをメトロポリタンで見たのだが、
あまりに素晴らしすぎて、開始10分で眠りについてしまい残念なときとか。
電車で隣に坐っている美人キャリアウーマンが眠ってしまい、
僕の肩にもたれてきたとき、うれしくて動揺して自分も眠ったふりをしていたら、
本当に眠ってしまうときとか。
高速道路を運転中に、急激な睡魔が襲ってきて次のSAまでもたせようと、
自分を殴りながら、命からがらSAにたどり着き、やっと眠れるときとか。

睡眠を媒介にして起こる素敵出来事のほうに、
命の源があふれていると思う。


生殖は、子孫を残し、さらに快楽を得るためにおこなう繁殖行為なのだが、
命の源となりうることとは違う気がする。
ヽ(゚∇゚(゚∇゚(゚∇゚o(゚∇゚)o゚∇゚)゚∇゚)゚∇゚)ノなときとか。
(。-_-。(。-_-。(。-_-。(。-_-。)。-_-。)。-_-。)。-_-。)なときとか。

生殖を媒介にして起こる素敵出来事のほうに、
命の源があふれていると思う。

***

既にあるテーマを心眼で見ることが大切で、
全ての物が繋がっていると認識できるとき、
本当に伝えるべきことが見えてくるんだね。

じつはそこがスタート地点なんだね。

***

●今日の柿ピー
「10:0」もわるくない。


2011年6月21日火曜日

あおっぽくてふんわりしたかんじ

注)かなり身勝手な解釈の文章ですので、読んだら忘れて下さい。
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「青っぽくて、ふんわりした感じ」
最近そんな写真が多い。
プロ、アマ問わず、多い。
流行っぽい蔓延。たしかにおしゃれにも見える。

世の中で流行る創作活動に共通していること、
それは、「自分にも出来そうな感じ」です。

例えば代表的なのが、
陶芸
書道
写真
ではないだろうか?
どれも、プロの作品を見たときに、
なんとなく出来そうな気がしてしまう人が多いのではないか。

僕の場合は、かなりおめでたいので、
サッカーを見ても、野球を見ても、ゴルフを見ても、
なんとなく出来そうな気がしてしまう。
テレビに食い入るように見て、技術を盗もうとまでしている。
出来ないくせに。
バカです。

でも、今あげた3つのスポーツは、
日本ではアマチュアの競技人口がものすごく多い。
それって、見ているうちにやってみたくなる人が多いってことです。
つまり、「俺にも出来そう」と思う人が多いということだろう。

その昔、
空を飛ぼうとして亡くなったひとは沢山いた。
両手に羽を付けて。
鳥を見て、「俺にも出来そう」と思ったに違いない。

「俺にも出来そう」という気持ちは、
麻薬のような効能がある。
自分のキャパを超えてみようとする、
もしくは超えられそうだと思う錯覚を抱かせる。
犬ですら、飼い主と走っているとき、ちょっと小高い段差に飛び乗って見せると、
同じことをしようとして、届かずに落ちることがある。
これって「俺にも出来そうだワン!」って思ったってことです。

***

この「俺にも出来そう」感は、その世界を甘く見ていることに繋がるのだが、
結果的に、そういう人が増えれば増えるほど、
その道を究めた人の素晴らしさが浮き彫りになる。

***

冒頭で語ったように「青っぽくて、ふんわりした感じ」を作風にしている写真家、
もしくは、写真愛好家って多い。
多すぎてもう食あたり気味です。
好きになりそうな写真も、結構見かけるのですが、
似たり寄ったりな物が多すぎる。
もちろんその中には社会的地位を確立している人も沢山いるのですけどね。

そもそも表層的な部分でカテゴライズしている僕がおかしいのですが、
あえてそういう心の狭い視点で見てみるのも面白いです。

で、
先日入手した写真集を見て思った。
この写真家さんは、浮き彫りになった人なのだと。
とにかく素晴らしい写真集なのです。
これを見たら、「俺にも出来そう」とは誰も思わないでしょう。

僕は常々思っている、
写真は複数を組むことで成立する文学だと。
もちろん偏った意見ですが、僕はそう思う。
その思いを完璧に肯定してくれた写真集だったのです。
しかも、その見開きに現れてくるリレーションは、
マッチング的な薄い意図ではなく、
根源的というか、先祖帰りというか、
ずうううっと向き合っていないと感じられないことを、
感じさせてくれた。
きっと、ずうううっと向き合っていることが
好きな人じゃないと、この感じは生み出せない気がする。

その写真集の写真家さんご本人の話でも、
脈絡の無い撮影を繰り返しながらも、
頭の中では、それを繋ぎ合わせるための編集作業のようなことを
ずっとし続けていると言っていた。
「カメラがこの世から消滅したら、何で自己表現しますか?」
とお聞きしたら、「文章」とお答えになりました。

やっぱ文学だ!

***

「青っぽくて、ふんわりした感じ」って、ほとんどが自然光の写真です。
日本では「自然光」と言えば太陽光のこと。
その種の人はだいたい太陽の光によって「青っぽくて、ふんわりした感じ」を
出している。この段階の解釈はみんな出来る。

欧米での「自然光」の意味は一寸ちがう。
写真業界に限っての解釈ですが、
撮影者が意図して作り出した光以外の全てを「自然光」と言うそうです。
つまり「その場の光」のことです。
素敵すぎる!!!!。ぞくぞくする。
本質がそこにある気がする。それこそまさに「自然光」です。
ちょっと言葉遊びっぽいけどね。

この「その場の光」という深い感じを、見る人に与えてくれる写真って少ないです。
たとえコントロールしていない光で撮影した写真だとしても、
なかなかそう感じるものはない。

***

前述の写真集は全て「その場の光」で出来ていた。


2011年6月15日水曜日

カシカってオカシカ

このところの話題と言えば、放射線量。
目に見えない恐怖。
いろいろな情報は入ってくるけど、
実際には見ることが出来ないので、
どれだけ汚染されているのかわからないのが現実。
体調不良や奇形植物が登場しだしてから、
被害を実感するのがおちだろう。

この世界には、目に見えないものが多い。

もしも、今、放射線を見ることが出来たら、、、。

イメージ的には黄色。
地面から5センチくらいの厚さで、黄色いモワモワした層が
遠くの方まで続いている。
薄く積もった雪のように。
そこを子供が駆け抜ける。すると、コンサートステージのドライアイスのよに、
黄色いモワモワは舞い上がり、横にいる通行人の鼻の中に入っていく。
散歩している犬なんかは、黄色いモワモワに浸かりっぱなし。

見えれば対策の施しようはある。怖いけど。

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最近とっても気になっている言葉「可視化」。
見えないはずのものが見えたら、、、
と想像すると、いろんなインスピレーションが生まれる。

「携帯電話の電波」が私的には一番見たいものです。
窓から外を眺めると、きっと辺り一面、
電波が描くラインが張り巡らされているはず。
なんとなく私のイメージだと、携帯電波は「ライン状」であってほしい。
着信する地点まで、遠くの方から電波を可視化した龍のような生き物が
うねりながらこっちに向ってくる。ファルコンみたいな。
ついでに半透明の発信者の名前が龍の正面に浮かんでいて、
誰からの電話かが着信の前に識別できたら面白い。
そんなイメージ。
町中にはそんな電波龍が無数に飛び交っている。
朝から昼にかけて、だんだんその数は増えていって、
午後2時ごろには、多すぎて前が見えないくらいになる。
電波龍のせいで、通常の視界が無くなってしまい、交通事故多発。
飛行機墜落。犬は棒に当たる。

でも、夜12時過ぎには、まばらに飛び交う電波龍が美しく、
こっちに来てほしくて、誰かに電話させたりする。
こっちから電話するときは、基地局に向けて電波龍が耳の横から発進する。

先日の大地震のようなときは、そこら中でこんがらがってほどけなくなって、
フリーズしている電波龍がかわいそうに見えることだろう。

おもしろいね。

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常に存在するものが可視化されたら、大変なことになる。
「空気」とか。
空気が可視化されたら、、、。
例えば真っ黒だったら、基本的に視界はゼロ。
墨汁の海の中にいるようで、身動きとれません。
一時的に狭い範囲を真空化するような、携帯型の装置が開発されて、
それを目の前にかざしながら歩くことになるのかな。
でも、真空のエリアにむかってまわりの大気が吸い込まれるから、
目の前はずっとブラックホールみたいになるね。

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すこし話がお伽になりますが、
映画や漫画が大好きな私的には、
「言葉」と「気持ち」が可視化できると、たのしい。
カメハメ波も夢じゃないかも。
言葉も、ギャートルズみたいに空に浮かんでほしい。
一番の希望は、
想像したことが、「想像吹き出し」のなかにビジュアル化されてほしい。
そうすると、仕事が楽だ。


思いついたらすぐに頭の上にこれが出る。
プレゼンも楽。例えばこんな感じって、想像すればみんなに見せられる。

考えてみると、漫画って見えないものの可視化だらけだね。
効果線とか、擬音とか、怒りをこらえるときのムラムラ線とか、
投げキッスするとハートが飛んでいったりとか、
おならするとキノコ雲みたいなのがお尻から出たり、
殴られると頭上に星が出たり、

漫画ブラッディーマンデイでは、ハッキングしてサーバに潜入する過程を
ハヤブサが防壁をかいくぐって飛んでいく姿で表現している。
失敗すると、ハヤブサが捕まっちゃうんですね。
わりとこの表現、好きです。

攻殻機動隊なんかは、ネット世界の概念を可視化しまくりです。
セカンドギグの久世がおこなった並列化はクラウド的思考で、
それを可視化したビジュアルは感動です。

改めてすごいですね。漫画って。

なんだか最近、漫画やアニメのネタばっかりな気がするね、このブログ。

2011年6月9日木曜日

シト襲来

何だこれは?
どうみても宇宙生物に侵略された地球の図です。



これは、昨年オープンしたフェラーリテーマパーク@アブダビ
なのですが、、、、、、。

有機的な形といい、ビビットな色といい、
完全にヒトデ型の「シト」です。
これから、人間やビルを食べながら成長を続け、
どんどん巨大化し、数年後には地表を全て覆い尽くすのです。

ついにこの時が来た!
マジャスティック12(米政府内対宇宙人研究機関)が、
密かに60億人が暮らせる地下都市を築き上げていたのだ。
いそげ!
人類の存亡をかけて、決断する時が来た!
この地球外生物に対向するために、、、
将来、地上を取り戻すために、、、
今は地下で辛抱し、研究し、我々は進化し続けるのだ。

所変わって、総理官邸。
一本の電話が鳴った。トゥルルル、、、。カチャ。

オバマ:ヨッ、カンチャン!
オレダヨオレ、オバマダヨ。
トーホクノトキハ、ズイブント、ワレワレノシエンヲ、ホゴニシテクレタネ。
デモイマハ、ソンナコトイッテルバアイジャナイネ。
ニッポンジンニモ、チカトシ、ヨウイシタヨ。
ナマエハサシズメ「ジオフロント」ッテコトデドウヨ。
ニッポンノオタクハヨロコブダロ!

官なおと:オバマさん、すんません。日本は避難しません。
(借りを作るといろいろ不利になりますから)

オバマ:ナンテコッタ!
コクミンノイノチヲダイイチニカンガエロヨ!

官なおと:オバマさん、すんません。
年金ごまかせるし、このまま成り行きで、、、。
一定の目処がたったところで、
若い人に責任を引き継いでもらって、、、。

オバマ:ダメダコリャ!

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ちなみに、この「シト」の中には、
世界最速ジェットコースターがあるんですってyo!



それにしても、この有機的な外観と、周囲の大地との対比は素晴らしいの一言です。
そもそも私は、古い町並みや建造物に、
ビビットなバナーやアートがあしらわれているルックスの虜でして、
単純明快な「対比」のすばらしさを表現しながら、
良い未来をイメージさせてくれるのです。

例えば、V&Aのエントランス


例えば、メトロポリタンのバナー

いいね、最高。

フェラーリパークも最高。
このフェラーリパークって宇宙人からもきっと見えるよね。